イリュージョンな仕事、実験成功。
なんだか最近構造的にタイトな設計が多い..
構造、予算的にしょうがない部分も大きい
わけであるがもうちょっと余裕を持ちたいものだ。
明日できっと片付く、予定。
今日気づいた事がある。
工場の前の道路はルート16に直結していて
結構いろいろな車が通る。
特に最近梅雨も開けた事もあって(多分)俗にいう
「旧車」もたくさん通るわけでティーン時代に熱狂
したホークやらGS、GT,KH,CB,CBX,Z,RZなど宝石の
ように磨き上げられた作品達がものすごいサウンドで
とおりすぎてゆくわけである。当時ならよだれを垂らし
ながらいつまでもその音を聴き、焼けたオイルとグラスウール
の香ばしくもケミカルな香りでご飯をかっ込む勢いだったが
最近はどうもこの音が耳障りだ。
モスキート音なるものがはやっているけどこれもティーン
にしかわからない音だったのかと少し寂しく思う。
昔乗っていたZ50Jは決して早いオートバイではなかったが
今思うとあれほど面白い乗り物は無かった。
フレーム以外そう取っ替え出来るほどチューン部品があり
その気になれば自作も出来るし走る感覚とマシンを作る感覚
がみそだった。前述したとおりそのポテンシャルの低さを
生かした限界走行を楽しむ事もできた。夏も冬も毎週のように奥多摩
へ出向き今思うとあり得ないくらい車体を傾けステップを削り
火花を出しながらコーナーをパスしてみたり、
某湖の工事用ダートコースでは全快でコーナーに突っ込みつつ
後輪を滑らしながらカウンターステアを当て、あり得ない角度に
マシンを傾けながら足を始点にターンするという恐るべき行為を
練習したり、
某湖のジャンプ台でジャンプしたり無意味にウィーリーしたり、
と今思うとぞっとするような事をそういえばしていた。
ひやっとする事もたしかあったと思うし「あ、これもう死ぬかも..」
なんてシーンもあった気がする。
バイクが速いか遅いかなんて関係なく、安全か危険かなんてのも
関係なく、ただ自分の作り上げた作品の限界を見たかっただけ。
そしてそれを使って自分の限界を見たかっただけなのかもしれない。
バイトしては給料をマシンにつぎ込み、大学に入ってからは
既製品では飽き足らず自分で作ったワンオフパーツをあてがい
どん欲にその作品を作り上げていった。あるとき思い立ち
実家の自分の部屋にその作品を持ち込み全てをバラしてネジ一本
ピン一本に至るまで錆びを落とす事を決意。
そして半年かけて私より年上のそのz50Jは新車の輝きを取り戻す。
数十万円をつぎ込み、8年の歳月をつぎ込んでその作品は完成した
かのように思えたが自分の中では限界を追求する心が
くすぶっているのを感じた。
そんな矢先その宝石は私の前からこつ然と姿を消す。
たまたまチェーンロックをかけ忘れたその瞬間をハンター達は
見逃さなかった。
朝になって昨晩までそこにあったはずの宝石が無い事に気づき
呆然となったが心のどこかで「これでもう全てが終わった」
という安堵にも似た感情があった。
それ以来そういった形で限界を求めるような行為はすっかり
しなくなった。
要するに自分にとっての作品とは自分のなかの限界を確かめる
様な行為なのかも、と当時を思い出してちょっと思った。
決して楽しいだけではなく苦しみやつらさや時には気が狂いそうに
なるくらいの重みも持ってたりするわけで参ったなこれと
考えつつ全ての発端はz50Jだった気がした..。
まあ詳しい考察はまた後日。
そんな事を考えたのは今日始めてフォークを買ったからかも..
スパゲッティを食べるのにかなり便利。何となく文明開化の
味がした、気がする..
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