2009年11月1日日曜日


(CASIO社 fx-4500p)

iphoneて便利。
今まで作業によってパソコンを使い分けたり
何だりしていたけどこれ一台でそんな必要
ほとんどなくなる、なんて思ったけど
いやちょっとまてよ、ホントにそうか?と
計算機を使っていて思った。
このCASIO社の関数電卓は設計や材料の寸法
計算に頻繁に使う必須アイテムでいて普通の
計算機では出来ない関数や様々な方程式が
扱えるわけだ。ハイスクール時代強制的に
かわされたものであるが(建築科)当時は
式を覚えたり無理矢理計算技術検定を
受験させられたりといやな事ばかりで
忌み嫌っていたのだがいざ実社会に出てみると(??)
こいつがすこぶる便利であった。
軽さ、サイズもさることながら12年間無故障、
電池交換一回と耐久性が突出している。
工場内にぽろっと置いておいても粉塵、水分、衝撃
をもろともしない筐体はさすがと言わざるを得ない。
たまに引っぱりだしてスイッチを入れても
そのLCDは「何だよ仕事かよ」と言わんばかりのようすで
静かに薄く点滅しそのやる気の無いフニャけたキータッチ
とともに怠惰に、完璧に仕事をこなすのである。
この主張しすぎないところが実は重要でいつ何時でも
うっすらと点滅する画面は「今回も無事使える」という
安堵感と「きっとこの先も使い続けられるだろう」という
妙な安心感がどういったわけか毎回漂うのである。

幼少の頃、まだCAD何てものはポピュラーではなく
手で図面を引いている父の姿をよく見ていた。
当時建築士にとって関数電卓は必須アイテムで
ドラフターの奏でる低い金属音、鉛筆の走る音、消しゴムで
揺れる机の傍らにはいつも消しゴムのかすにまみれた
ショートホープと関数電卓が置かれていた。
大人になったらこんなにボタンの多い計算機が使えるように
なるのかと眺めていた自分もいつの間にか父と同様に
関数電卓を普通に扱うようになったのだとふと思う。
時代というものは常に流動しこの関数電卓もいつの日か
別のものに移り変わるときが来るかもしれない。
人間というものはうつろ気で真あたらしいものに飛びついたり
便利と思われるものに浮気したりするが目先の便利さを求める
罪より
いざ無くなってから感じる後悔の方が罪が重い。
無くなってから気づくのでは遅すぎるのだ。
きっとこういった「気づく能力」というものが21世紀に
重要になるだろう。
今あるモノと新しく生まれるもの,淘汰されるものと生き残るもの
の関係は慎重に考えないと今に痛い目を見る。
最近の電子機器はON OFFのはっきりしたものが多い。
何となくこの関数電卓のもつ独特のゆるさによって
「道具」というものを考察してみた。
要は「適材適所」という事を言いたかったわけだが
長くなった。きっとこんな事を考えるのは秋と山口百恵のせい。
時差ぼけはなおったのだろうか...

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