2010年1月29日金曜日

最近またバイクに乗るようになった。
まだまだ肌寒い日が続くが愛車シグナスが
復活した事もあって細かい買い出しや用事には
それにのることにしている。
一年放置していた事もありガソリンがちょっと
腐っているらしく出先でエンヂンがかからない
事もしばしば..。おそらくチューブかキャブの
穴にゴミが詰まっているかガソリンタンクに水が
貯まっているのが原因だろう。
これはそのうちなんとかするとして、
「バイク」とは一体なんだろうと考える。
自転車よりは楽で車よりは簡易的なモビールだが
その走行性能に対し構造が若干凡弱で
その気になれば日本一周できるくせに万一壊れたときの
対処がユーザーレベルではどうにもならなかったりする。
例えば自転車なら押したり担いだりできなくもない。
車ならロードサービスを頼んだり修理施設はいくらでもある。
しかしバイクときたら押すには重く担ぐ事もできず
修理施設もほとんどない。
移動手段としてこれほどリスキーな乗り物は無いだろう。
一昔前なら奥多摩で壊れ都心部まで押して帰ったなんて
話しはざらに聞いた。(私だけかもしれないが..)
このご時世こんなにも不安定な乗り物が残ってるなんて
と先日愛車を押して帰りながらぼんやり考えていた。
それでも無くならない理由はなんだ。
マシンには必ずオーナーとの「ドラマ」がある。
きっとバイク文化が無くならないのはマシンと人間の
間に起こる吊り橋効果的な感情だろう。
「ドラマ」を期待する事もあるしむりやり体感させられる
事もままある。
そもそもエンヂンにまたがって生身の身体で限界の
スピードを体感できるものはバイク以外に無い。
よくこんな危ないものが成り立っているなと思うが
逆を返せばこういうものがあるうちは人間というものは
まだまだ発展途上でこんな事を感じた自分も昔のままだ
と感じどういうわけかほっとした。
最近ではインジェクション化されたり電子的に出力を
落としたりとバイクにおける去勢的事態が起きているらしいが
スピードや恐怖によって命を揺らし続ける輩は後を絶たない
だろう。きっとそれは日常を逸脱せしめる命や自分の確認作業に
等しいからだ。身体になにがしかの抵抗や負担を与え、
そこから自分の存在意義や意味を求める行為は生と死表裏一体の
生き物にとって重要なドラマなのかもしれない。
特に先進国として「死」というものがはるか対岸の出来事になった
昨今、無意識に「バイク」という存在を存続させる行為は
人間の根本的な欲求に関係があるのかもしれないし、なんとなく
この感覚が去勢されたとき人間は生き物で無くなるような気がした。

要するにバイクって楽しいなと思った話し。

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